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戦国時代板の基礎知識 これくらいは知っておかないとバカにされますよ ってことです 戦国時代全般編 治安はそれほど悪くはなかった(京都も自治組織みたいなのがあった)ので、世紀末状態ではない だが流石に大名家と大名家の境目あたりはやばい 領土の大きさよりも石高が大事 例えば尾張とかあんなに狭いのに50万石を越える大国 1万石×250が大体動かせる兵数 例えば50万石なら12500 100万石なら25000程度が一応の目安(ただし朝鮮出兵ではこの倍の1万石×500人で出兵している大名がいる) テレビもインターネットも無い時代だったので数字がかなりいい加減 桶狭間で今川4万とか耳川で大友6万とかそんなのありえない 一揆討伐を現在の価値観(その辺の一般人と職業軍人の戦いのような物だと思い込む)で考えるのは間違い 惣構は結構あちこちの城に存在した 織田信長編 信長は人望があった 信長は意外といい人 信長はそれほど残虐ではない 信長はイメージ程短気ではない 信康(徳川家康の息子)は信長が殺したわけじゃない 信長に都合が悪く家康に都合のいい話は大抵江戸時代の創作(姉川の戦い、信康殺しなど) 信長と光秀は仲がいい 好きで焼き討ちやってるわけじゃない(美濃攻めの時に山ごと焼けばすぐに城が取れるのにしなかった) 好きで宗教勢力の皆殺ししているわけでもない。信長が戦ったのは世俗勢力としての宗教勢力で、別に一向宗の信仰・布教は禁止していない 長篠の戦いでは三段撃ちしてない 楽市楽座のオリジナルは信長ではなく六角さん 他の大名もやっている(今川氏真?も) 稲生の戦い、森部の戦い、天王寺の戦いなど寡兵で大軍を破った戦がたくさんある だが桶狭間はまぐれ勝ちという意見が強い 三方が原の戦い最大の被害者 包囲網を相手にしながらでも信玄ぐらい倒せる 本能寺の変が無かったら確実にあと数年で天下統一 豊臣秀吉編 領民に愛された太閤様なんて嘘 残虐行為が多い 本能寺の変時点では秀吉は家臣筆頭の柴田、第2位の明智 色々といい扱いを受けていた丹羽の下 4番目ぐらい 信長が死んでから信長の悪口をあることないこと言いまくるあたり文句なしで性格が悪い 信長と同じくワンマン それほど竹中や黒田に頼っていない だが秀長の力無くして天下人秀吉はありえなかった 政策は信長の引き継ぎ&誰でもやるレベルの事がほとんど。刀狩り後も農民が刀持ってたり、太閤検地も架空の石高が提出されてたりする 朝鮮出兵での戦いは終始日本優勢。でも統治は別 豊臣家滅亡の原因は全てコイツ 秀頼は多分コイツの子供じゃない 悪い噂が絶えないが、徳川家によって貶められている部分もあるので注意すべし 徳川家康編 忠実な三河武士などいない。だいたいオヤジの死因からして… 自分に都合の悪いことは全部信長に押し付けた(息子殺し、三方が原で3000しか兵を送ってくれなかった など) 姉川での奮闘など無かった というより、姉川の戦い自体それほど大規模な戦いでは無かった 三方が原の戦いはあそこで逃げたら国人がついてきてくれなくなるので仕方なしの出陣 家康のミスではないし信玄がすごいわけでもない 妥当 実はそれほど酷い人質時代というのは無い 別段、人望があったわけではない。三河一向一揆、信康粛清、重臣・石川数正の寝返り、信濃の一揆、大久保長安事件・・・ 一向衆との約束を破って寺を壊し、信玄との約束を破って氏真を見逃し、信長との約束を破って武田家臣を匿い、毛利との約束を破って領地を取り上げ、秀吉との約束を破って秀頼を(ry 秀吉の墓を破壊した 残虐度は 秀吉>家康>信長 実は鎖国してない。むしろ海外貿易に積極的 江戸時代の平和は外敵がいなかったから 都合の悪いエピソードはあったとしても260年かけて念入りに消されている 武田信玄?編 戦国時代で最も過大評価されている過大四天王(武田上杉島津伊達真田 5人いるが気にしてはいけない)の筆頭格 常に優勢な状態で戦いを挑んだため寡兵で大軍を破った戦とかない そのくせ何度も負けてるからコイツやっぱ戦下手だろ 信虎以上の重税を課していた 領民から嫌われていた 政権奪取後暫くは板垣信方の傀儡だった。板垣が戦死するまで制御する事は出来なかった 所詮国人のまとめ役的存在なので組織作りはダメ 人を使うのも本当に上手かったのかどうか・・ 信長が恐れたりするような人物じゃなかった 親分(今川義元)には頭が上がらない 三方が原は3倍の兵力差があった 別に信玄が凄いわけじゃない イナゴ戦法(相手の国から物資を奪う)と人身売買によりなんとか国が成り立っていた 自転車操業 川中島は霧の中で退却中に偶然当たっただけ 武田家滅亡の原因は全てコイツ わざわざ相手から同盟を申し込んでくれているにも関わらず考えなしに同盟を切っていくのはバカすぎてフォローのしようがない 自分が四面楚歌の時信長に「どうか見捨てないで下さいよ。あんたが頼りなんだから」と哀願しておきながら、信長が四面楚歌に陥ったら即裏切るという素敵な思考回路の持ち主 最初から甲斐22万石を丸ごと持っている とかなり恵まれている 最初から5000の兵力を動かせたのだからかなり恵まれている 信濃には大名がいなかった(豪族ばっか)のでかなり恵まれている 最後の西上作戦も実は上洛しようとしてなかったことが分かってきている というか家康領を横取りしている最中でも信長にご機嫌取りの手紙を出したりしている。無論信長はマジギレしているので取り付く島はなし 病弱 武田勝頼?編 「偉大な信玄、バカな勝頼」は大間違い。むしろ信玄がバカ それなりにできる武将だった 信玄のせいで後継者としては最悪のスタートを切るハメに 馬防策に向かって突撃し続けた、は完全なるフィクション 失策とされる事にもそれなりの理由がある 織田との和睦を模索するも使者は信長に門前払いされる。もちろん信玄のせい 中央集権化を恨んだ重臣連中が武田滅亡後、責任を勝頼に押し付けた 上杉謙信?編 イナゴ戦法と人身売買が得意 うえすぎは○○城を奪い100の金と200の兵糧を手に入れた・・・というゲームみたいなことを実際にしていたという恐るべき大名 信玄とほぼ互角=別に戦上手でもない 内政は結構得意 信玄と好敵手とか言われているが、願文やら書状を見る限り、本気で信玄を嫌悪していた模様 10万の大軍で北条を攻めるも二の丸もできていない小田原城を落とせなかった 領土拡大の欲が無かったのではなくて領土拡大できなかっただけかもしれない 最後のほうはどさくさにまぎれて北陸のほうをだいぶ取っていて100万石の大大名に 織田家との国力の差を考えるとどう考えても勝てっこない 越後本国の譜代に何度も反乱を起こされる 関東管領の家柄を手に入れてさえ 手取川の戦いはあったかどうかすらも微妙 あったとしても小規模 女性説は珍説 今川家編 義元は超有能 義元の「義」は将軍・足利義晴の義。通字をもらってるあたり、信玄とは格が違う(武田晴信の「晴」も義晴から拝領) 実は和歌が苦手 氏真も無能ってわけじゃない 伊達政宗編 「独眼竜」は明治時代の創作。元は中国の武将のあだ名 騎馬鉄砲隊は本当にあったのか知らないが、あったとしてもそんなに強かったのかどうか 早めの家督継承は当時、割と一般的だった。織田信忠は19歳、今川氏真は20歳前後で譲られている 北条家編 北条姓を使い出したのは氏綱からだといわれている 俗に早雲と呼ばれる初代は素浪人ではなく、家族を殺された将軍が報復として伊豆の茶々丸をぶっ殺す為に派遣した幕府官僚 茶々丸はすぐに殺されたわけではなく、諸大名と連携してかなりしぶとく抵抗を続けていた 早雲の実績は大分氏綱から吸われている 氏康がやった河越城の戦い(11000で60000の軍勢を破った戦)は諸説あるものの上杉と北条のバランスを見る限りあってもおかしくない戦であり、戦国時代に残る素晴らしい戦 氏康・綱成・氏繁・氏政、みな篭城ばっかしてる 名君が比較的多い家柄 毛利家編 国人領主のまとめ役の典型例。 「毛利両川」と言えば聞こえはいいが、要するに毛利家の支配を確立できてない証拠。織田家と北畠・神戸家との関係と比べてみれば良く分かる 厳島の戦いは捏造が激しい。陶軍はそれほど優勢ではなかったし、元就の策略なんて存在しない。村上水軍の帰趨がすべて 元就が生涯に100回の戦を経験?どうカウントしてるの??? 家柄が良くなく謀略が多いので人望は微妙 元就が八ヵ国の大名というのは、ちょっとしか領土のない筑前・豊前もカウントしての事 よくも悪くも元就の遺言に振り回される 輝元は総大将、吉川は空弁当、秀秋は裏切り。天下も狙えたのに所領大幅減。毛利両川(笑) 島津家編 外交オンチ 敵兵の数を実際より多く記録する事にかけては右に出る者なし 鬼という割に得意技は伏兵 2部隊で挟撃しようとしたら片方が壊滅 これがなぜか釣り野伏せ呼ばわりされる わざと弱い部隊を敵にぶつけて敗走させるリアル釣り野伏せ 関ヶ原でのアレは敵中突破ではなく、道をそれて逃げた 200年以上も徳川家を恨み続ける 仏教勢力編 お坊さんは丸腰ではありません。僧兵がいっぱい、鉄砲もいっぱい 基本的に権力者です 信者が貢いでくれるのでとっても裕福です 女人禁制の比叡山になぜか女が 宗派が違うお坊さん同士が戦争する事もあります 非常に広い敷地を持っている上、土塁や堀で囲まれているのが普通。このため大名に陣地として利用されること多し 本能寺の変 編 黒幕などいない 光秀の動機は・・・領地召し上げ、母を見殺し、「我々も骨を折った甲斐が(ry」、魚を堀に捨てた、これらはすべてフィクション 現在では、長宗我部との外交打ち切りが発端、と言われている 秀吉が「天が下なる」を「天が下知る」に改変 信長だけでなく信忠まで死んでしまった事、幼い三法師だけがヘタに生き残ってしまった事が織田家にとって痛恨 信忠は逃げようと思えばほぼ確実に逃げられた。逃げなかったのは判断ミス もし信忠が生き残っていたら織田家が天下統一し、秀吉の天下はなかったと言われている。1人の人間の判断で歴史が変わった瞬間。家康はお察しください 本能寺は当時の寺の例に漏れず防備があった上、京都にも惣構があった。信長は完全に油断していたわけではない 諸将が出払ってて信長が少勢で信忠も一緒にいて光秀が近くで軍を率いてた・・・というだけでなく、信忠が京に行こうと思ったのは変の5日前(5月27日書状)、光秀の与力4人が全員謀反に同意、などなど、非常に偶然性の強い出来事だった。『変がなくても信長はいつか殺されだたろう』なんてのは大間違い 変の前日は日食。これも光秀の心理に影響を与えたかもしれない いろいろ考慮しても光秀側の勝ち目は非常に薄い。ここだけは江戸時代から変わらない
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Q 次の剣術とその開祖の正しい組み合わせ A 馬庭念流-樋口定次 微塵流-根岸兎角 神影流-奥山公重 霞流-真壁氏幹 Q 次の戦国武将の名前と幼少名の正しい組み合わせ A 三好長慶-千熊丸 太田道潅-鶴千代 今川義元-芳菊丸 織田信忠-奇妙丸 Q 次の戦国武将とそれに仕えた軍師の正しい組み合わせ A 龍造寺家兼-鍋島直茂 石田三成-島左近 伊達政宗-片倉景綱 武田信玄-真田幸隆 Q 次のキリシタン大名とその洗礼名の正しい組み合わせ A 有馬晴信-プロタジオ 蒲生氏郷-レオ 大村純忠-バルトロメオ 大友宗麟-フランシスコ 高山右近-ジュスト 宇久純尭-ドン=ルイス 黒田長政-ダミアン 木下勝俊-ペテロ Q 次の書物とその著者の正しい組み合わせ A 三河物語-大久保 忠教 天正期-大村 由己 信長公記-太田牛一 Q 次の戦国武将とその異名の正しい組み合わせ A 渡辺了-槍の勘兵衛 前田利家-槍の又左 渡辺守綱-槍の半蔵
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戦国総合 企画種類 現行スレ名 URL 備考 地域勢力 【毛利】中国・四国地方の戦国時代【長宗我部】 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1202468140/ 人物談義 三好長慶を語るスレ http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1209222022/ 人物談義 明智光秀は本当に有能だったのか?? http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1245888160/ 地域勢力 【豪族】代表的戦国大名が特にいない都道府県民が寂しさを慰めあうスレ【乱立】 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1288678138/ 人物考察 小早川隆景 VS 直江兼続 Prat2 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1295864542/ 人物考察 上杉謙信は伊達政宗に比べればたいしたことがない http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1224645610/ 人物談義 宇喜多直家を語るスレ http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1209221656/ 家系談義 系図を語るスレ http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1208954216/ 人物考察 【肥前の熊】龍造寺隆信【竜造寺】 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1296814247/ 人物談義 【神聖】朝倉義景公のスッドレ【一乗谷】 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1216282705/ 人物考察 ザコ・北条氏康【今川・上杉・武田に負け続け】 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1284404168/ 史実考察 ■戦国時代に書かれた日記を読むスレ■ http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1205546437/ 史実考察 戦国最強は誰だ!信長・信玄・謙信・元就… http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1279533184/ 史実考察 戦国関係の古文書を貼りまくるスレ http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1210072326/ 人物談義 世界最強騎馬軍団を率いた武田信玄公を讃えるスレ1 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1248236149/ 人物談義 伊達政宗は上杉謙信に比べれば大したことはない http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1288719546/ 遊戯談義 信長の野望・天道 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1246071863/ 人物談義 どうすれば真田昌幸幸村親子は天下をとれたか? http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1267621031/ 勢力考察 戦国時代の島津家が最強すぎる件 http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1330226404/ 遊戯談義 信長の野望でデカくなる大名って南部上杉北条三好大友辺り http //engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1227104379/
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柿崎景家 京極高次 河野通宣 小西行長 小早川秀秋 柿崎景家 柿崎景家 越後柿崎城主。長尾為景・上杉謙信親子に仕える。 上杉定実の養子問題の際に伊達家に外交で赴いたという。 弘治二年村山美作守が武田晴信に内通した際にはその間者を捕らえ、謙信に注進。 美作守は直ちに誅殺された。 永禄元年からは春日山城の留守居役を務めた。 元亀元年北条氏との和議が成立した際には、子の晴家を人質に送った。 その他北陸の勢力との外交交渉も担い、奉行として行政にも手腕を発揮するなど 直江景綱らと共に重臣として重きをなした。 なお川中島の合戦にも参加しているが、飯富虎昌の攻撃を支えきれず危機に陥ったところを 色部勝長に救われたという。 京極高次 京極高次 京極氏はばさら大名として有名な宇多源氏佐々木道誉の子孫であり、 室町幕府の四職を務める名門である。高次はその京極氏の当主として戦国時代後期に その名を馳せた名将として知られ、領地や地位よりも戦場における派手派手しさや 楽しさを追及し、一方で妻を愛でた、戦国随一のばさら者でもある。 秀吉や家康よりも一世代下になる高次は最初信長の元に人質として出されそのまま仕えるが、 若干20歳のころに本能寺の変に遭遇する。この時高次は信長の薫陶を受けて得た戦略眼で 光秀の敗れを予見したが、義兄弟の武田元明が旧領回復のため光秀に付いたのと、 何よりただ勝ち馬に乗るのは詰まらない、という理由からあえて劣勢な光秀側に付き、 秀吉の本拠、長浜城を攻めて武名をあげる。 戦後、秀吉は高次を敵に回すのは得策でないと考え、武田元明は処断しつつも高次の姉 (妹とも)竜子を側室に迎えて懐柔した。秀吉がここまで腰を低くしたのは他に家康程度であり、 高次に海道一の弓取りと同等の評価を与えていたことがうかがえる。 しかし、ばさら者の高次にとっては世間の評価もさほど気にならなかったと思われ、 それを秀吉も感じて改めて、お市の方の次女、お初を妻にさせる。 長女のお茶々は秀吉の側室であり、三女のお江は秀忠の正室であることからも、 秀吉が高次に気を使っていることは明らかである。 秀吉政権下では美貌の妻を愛でつつ、秀吉の戦は物量で押すだけなので詰まらぬ、 とばかりにさしたる働きもせずに呆けていた高次だが、関ヶ原の戦いが起こるに至って 要衝近江大津城を押さえる高次のところに東西両軍から誘いが掛かる。 当初、高次はこの戦は家康の勝ちと見て、本能寺の変のときと同じように三成方へ付こう とするが、家康が会津征伐に行き、上方を打ち捨てると知って俄然考えを変えて家康方に付く。 これは家康が説得したのが奏功したともいえるが、ばさら者の高次が三成方の軍勢を受けて 戦を楽しもうとした、と理解するのが正しいと言える。 実際、関ヶ原の戦いでは伏見城の鳥居元忠が玉砕、丹後田辺城の細川藤孝が1万5千の兵に 攻められて和議となり、大津城に立花勢ら4万ともいう大軍を引き受けた高次は 後詰もない中で城兵をよく掌握して奮戦した。 己の身に矢傷を負っても城を抜かせないの高次の勇猛ぶりは京にまで伝わり、 ばさら者高次の雄姿を一目見ようという民衆が集まったほどである。 10日間に渡って城を守りぬいた高次はそろそろ家康と三成との決戦が付くと読み、 関ヶ原での両軍激突の前日に北政所の敬意を表する形で開城するが、 これは決戦の時まで守り抜くのは名を誇示する行為であり、かえって己の身を 危うくする元となる、と考えた高次なりの出処進退であったと思われる。 なお、余談であるが、近年戦国時代を舞台に大名が先陣をきって大軍を打ち破っていく アクションゲームの中に、「戦国BASARA」なるゲームがあるがこのタイトルは 戦国時代のばさら者、京極高次の大津城攻防戦での活躍をモチーフにした、という説が 有力である。 河野通宣 河野通宣(こうの-みちのぶ)?-1581 別名通賢。通称宗三郎、四郎。官位伊予守、左京大夫。 1543年、兄晴通の早世により家督を継ぐ。 この頃の河野氏は先々代通直(弾正少弼)により引き起こされた後継問題による 統率力の低下、細川(三好)、大友、大内、長宗我部等外敵の進入に悩まされていた。 また通直も後見人として権力の座には残っており、これも通宣を苦しめる事となる。 通宣は内訌に対しては名将平岡房実を起用する事で鎮圧に成功。 また対外関係においては大内、尼子を滅ぼす前の毛利元就と手を結ぶ事を決断し 厳島の戦いにに来島水軍を派遣。これにより毛利氏と河野氏の間に友好関係が 築かれる事となり、この関係は以後自慢の海軍力共々外敵を退ける大きな力となる。 更に低下した権威の強化にも着手、朝廷から左京太夫を受任する。 1568年病に冒される。万一没した場合混乱しない為、また再び継承問題にならぬ為 家督を妾腹の子ではなく一族の牛福丸(通直、伊予守)に譲る事を決断。 なお後見人に悩まされた経験からかこののち通宣が主だった動きをすることは無くなる。 1581年死去。数年の後に半ば騙されるような形で河野氏は滅ぶ事となる。 仮にもう数年長く生きる事が出来たならば河野氏は滅亡をまぬかれたかもしれない。 小西行長 小西行長 関ヶ原、多くの義将達が咲き乱れ、散っていった大戦。 幼い秀頼、心から尊敬した天下人秀吉、運命に苦悩する一人の女性「淀」を守るために戦った石田三成。 親友のため、自ら盾になった。命を燃やした討死…大谷吉継。 数多の名将たちの最後…彼は夕焼けに何を見つけたのだろうか… 義の名将 小西 行長 彼は切支丹大名として有名である。九州の一部を豊臣に任された将であった。 島津家、立花家、黒田家、加藤家、小早川家、名将たちの激戦区…九州。 東軍と西軍に二分され謀略と裏切りが覆い尽くした。 そんな時代を生きた彼の出自は商人であった。生まれたのは京都である。 このころから、商人である父の影響で切支丹となる。 最初に仕えたのは裏切りの将と言われる、宇喜多直家。行長は主に外交の仕事を任された。 だが、圧倒的な勢力を持った織田家には逆らう事は出来ず、ついに降伏することとなった。 その時、活躍したのが小西行長である。羽柴秀吉との交渉により戦をすることなく降伏できた。 その後、小西行長の実力を見抜いた秀吉は行長を自軍に取り入れる。 九州征伐では国人を敗退させ24万石の城主となる。 秀吉は朝鮮を攻める際に先鋒として行長を派遣する。加藤清正にも劣らない大きな武功を立てた。交渉だけでなく、戦でも力を発揮した。 朝鮮攻めが不利になると得意の交渉で切り抜けた。 そして、運命の関ヶ原…激動の人生の終わり…。 戦は東軍の圧勝。義将として戦いぬいた行長は三成、安国寺と共にに処刑される。 そうして、名将「小西行長」の人生は終わりを迎えた。 正義を貫いた彼は天界で永遠の幸福を手に入れたのだろう… 小早川秀秋 小早川秀秋 太閤秀吉の甥であり、幼い頃から後継者として期待され、またふさわしい将の片鱗を見せていた。 しかし秀頼が生まれると冷遇され、厄介払いの如く小早川家に養子に出される。 しかし秀秋は腐ることなく鍛錬を重ね、朝鮮出兵では総大将として出陣、自ら数多くの首級を上げる活躍を見せる しかし秀秋の存在を疎ましく思う三成(一説には秀頼の実父が三成であり、秀頼の強力なライバルである秀秋に恐怖していたと言われる) によって戦果は捏造され、秀秋は秀吉の逆鱗に触れることとなる。 このとき秀秋は三成の策謀に気づいていたが、秀頼を自分の子供と信じて疑わない養父秀吉のことを思い、 自分が犠牲になるだけならばと自ら身を引いたといわれている。 関ヶ原合戦においては1万6千の兵力もさることながらそれ以上にその絶大な将器を広く知られていた秀秋を味方につけたほうが勝ちであろう と雑兵に至るまで噂されるほどであり、両軍から破格の条件を持って誘われることとなる。 しかし家康、三成とも私利私欲の兵であることを見抜いていた秀秋は双方どちらにも味方せず中立を保っていた。 こんなつまらぬ戦で大事な家臣たちを一人でも殺すことは出来ないと考えての勇気ある決断であった。 しかし劣勢になり恐慌をきたした家康軍が秀秋軍に発砲するという暴挙に出る。これを受けて兵士たちは 「西方にお味方すべし。家康軍に突撃すべし」といきり立ち、もはや中立の維持は不可能な状態であった これを受けて秀秋は咄嗟に「三成とその操り人形である秀頼ではこの日の本は持たぬ、まだ家康であればなんとかなるであろう」 と判断し、家臣を一喝し石田方に突撃。秀秋軍の獅子奮迅の奮戦により総崩れ寸前であった東軍は大逆転勝利を収める。 戦後戦功第一であった秀秋は関白職を打診されるが、もはやいたずらに天下を乱したくないとしてこれを固辞する。 戦後は領土経営に尽力していたが、1602年に急死。秀秋の将器を恐れた家康の暗殺と言われる。 小早川 秀秋 1582-1602 官位は従二位、権中納言。左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、 金吾中納言とも称された。 幼少から文武に優れ、豊臣家から厄介払いされて小早川家の養子になったにも かかわらず、秀吉、隆景の後ろ盾がなくなっても1万近い兵卒は、この時14歳の 秀秋につき従っている事から見てもその非凡・名将ぶりがうかがえる。 慶長の役の蔚山城の戦いでは、明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かった。 初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。 関ヶ原の戦いでは徳川家康の内通工作があったが、西軍に属した。 西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、 上方2ヶ国の加増を秀秋に約束され、 また、宇喜多秀家隊が福島正則隊を撃破し、また大谷吉継隊も藤堂高虎隊 を敗走させるなど西軍優位の展開の中、 焦った徳川家康は小早川秀秋の陣へ威嚇発砲した。 この期に及び松野重元ら豊臣恩顧の秀秋重臣は西軍への参戦、東軍への攻撃 を確信したが、石田三成らに約束された関白就任を空手形だと見破った 小早川秀秋は西軍・大谷吉継への攻撃を命令。 これにより東軍の勝利となったが、その際秀吉から強い恩顧を受けていた 松野重元は、関ヶ原の戦いにおいて、東軍へと寝返った秀秋に反発し、 戦線を離脱する。 小早川秀秋が大谷吉継攻撃を命じた際発した松野重元の「そっちかよ!!」 は今も吉本芸人に愛されている基本的突込みである。
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74式戦車(*1) 通称ナナヨン、戦国自衛隊に1両登場している +追記 SD(スパーデフォルメ)に進みたいのに上の絵じゃSDじゃないので・・・ SDっぽく描いてみました・・・いや・・・D(デフォルメ)くらいかww +追記2 はい、さらにデフォルメしましたw これで安心してSDを名乗れますw 昨日の夜、ネットで「戦国自衛隊」(*2)を見ましたw って事で描いた絵を載せて見たんですが・・・ 貴方は戦国時代に戻ったら(戻されたら・・・かな?)何をしますか?w しかし・・・ナナヨンって名前は良いよなぁw りな、絶対に剣士です。 あ、日本では武士って事になるのでしょうか? 別に戦国時代に限らないけどw -- りな (2008-09-29 14 31 17) お~・・・武士やるんか~ww 戦国自衛隊(ドラマ版)では 帰りたい派(伊庭隊)と 「歴史を変えてやろう」って言ってる派(嶋村隊)でしたね~w ん~・・・僕は・・・帰りたいw まあ自衛隊だから武装が強くて戦う羽目になった・・・って事みたいw -- 司馬くん (2008-09-29 15 55 03) 名前 コメント
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登録日:2011/12/30(金) 15 01 39 更新日:2024/07/02 Tue 01 24 35NEW! 所要時間:約 11 分で読めます ▽タグ一覧 1600年 お家に帰るまでが合戦です 人付き合いは大切にしよう 合戦 天下分け目の内ゲバ 天下分け目の大戦 小早川秀秋 小早川秀秋←絶対に許さない絶対にだ 岐阜県 島津はいつも通り 徳川家康 悪夢の午後二時 戦国チート物語 戦国時代 戦国甲子園 日本史 東軍 正面がお留守ですぞ 石田三成 西軍 関ヶ原 関ヶ原の戦い 「関ヶ原の戦い」とは、1600年9月15日、徳川家康率いる東軍74000と石田三成をはじめとした西軍84000が関ヶ原(今の岐阜県不破郡関ヶ原)にて激突した戦いである。 ●目次 【概要】8 00 8 10 9 00 10 00 11 00 12 00 13 00 【備考】◆秀忠遅参説 ◆小早川秀秋 ◆桃配山 【戦後】 【概要】 総158000人が激突した戦国時代最大の戦い。 そして世界最大の戦いでもある。 15万程度で世界最大?と思うかもしれないが、「最大」は人の話ではなく銃の話。 関ヶ原で使用された鉄砲の数およそ25000。 これは当時の欧州全土が保有していた鉄砲30000丁に匹敵する(*1)。 まさに当時としては世界最大の銃撃戦が繰り広げられたのである。 各陣営が布陣したのは6時頃。 濃霧の影響もあってか遭遇戦じみた両軍、東軍は一足先に布陣していた西軍に飛び込む形で布陣、 特に東軍福島正則と西軍宇喜多秀家の距離は1キロも無かった。 東軍が西軍に鶴翼に包囲される事になったこの陣形を見て、 明治時代、陸軍大学校で教鞭をとったドイツの名戦術家、メッケルは西軍の圧勝を確信した……と言われている。 しかし歴戦の総大将が最前線で指揮を取る名だたる精鋭軍と指揮官はいるが総大将のいない雑軍という背景を見ていたら掌を返していたかもしれない。 この戦いの他、東北ではこの戦いの発端にもなった上杉家が西軍として東軍の最上領を攻めた「慶長出羽合戦」、 九州では大友家再興を夢見る大友義統が毛利家の援護を受け九州に上陸し、黒田如水(官兵衛)と対決した「石垣原の戦い」、 信州では真田正幸、真田信繁父子と徳川秀忠が対決した「第二次上田城合戦」など、 全国の武将が完全に2つの陣営に分かれて激戦を繰り広げた。 ちなみに、勘違いされがちだがこの戦いは豊臣家と徳川家の決戦ではなく、 豊臣家の家臣である石田三成(大将は毛利輝元)と徳川家康の戦いで、体面的には豊臣家内の派閥争いである。 そのため、家康率いる東軍には福島正則などのいわゆる「豊臣恩顧の武将」も多く所属している。 果たしてその結果たるや─── 8 00 井伊隊、抜け駆け 突然、先鋒を勤めることになっていた福島正則を追い越し井伊隊が突出。 これに福島隊抗議するも初陣である総大将家康の息子、松平忠吉に合戦を見せるだけだと言い伏せる。 しかし井伊隊は宇喜多隊に対して発砲、関ヶ原の戦いは抜け駆けから始まった。 この背景には本来の徳川本隊にして精鋭部隊だった秀忠軍30000が様々な不運の結果、 合戦に間に合わないという世紀のダイナミック大遅刻をやらかしたから…… とこの記事にも書かれていたが、近年の説だとほぼ全面的に否定されている。詳細は後述。 8 10 開戦 抜け駆けに激怒した福島隊が遅れをとるなと宇喜多隊に突撃。 宇喜多隊もこれに応戦する形となり、ついに両軍が激突した。 但し、この抜け駆けに対し福島正則が家康に抗議したという記録はないため、 近年の研究では本当に井伊隊が福島隊を追い越した時に偶発的に開戦したのではないかとも言われている。 9 00 石田隊、奮戦 数に勝る宇喜多隊が福島隊を押し初戦は西軍優位にすすむ。 が 三成のせいで三成のせいで三成のせいで 関ヶ原の合戦前、武将の引き込み合戦に巻き込まれて命を散らした妻ガラシャの仇をとらんと、戦国が誇るヤンデルDQN武将細川忠興が石田本隊に突撃。 これを三成に過ぎたると称えられた名将島左近が迎えうつ大激戦となった。 左近の猛戦に正面からの衝突は不利とみた黒田長政隊は側面へと動き、左近隊に鉄砲の一斉射撃をくわえる。 この凶弾に左近が倒れ生死不明に。 崩れた石田隊に東軍が迫るもすぐさま大砲で応戦、戦線を押し返す事に成功する。 10 00 家康、陣を前に移す 膠着状態となり一向に戦況動かず、かつ霧でみえない戦場に業を煮やした家康が陣を移動する。 よくここで家康は動いたのに三成は…なんて言われたりするが、ヤンデルに狙われて陣を動かす余裕などなかったというのが実状である。 11 00 西軍総攻撃の狼煙があがる 大砲で応戦するも徐々に圧されはじめる三成はここで西軍総攻撃の狼煙をあげる。 これにより家康の背後に布陣する毛利、側面に陣を構える小早川をはじめとする大軍が挟撃。 これにより突出しすぎた東軍は進退極まりついに西軍により撃滅される──── はずだった 三成「────動かない…。誰も…誰も動かないじゃないか…」 そう、毛利も小早川もそして島津も──── 今前線で奮戦している部隊以外、誰も動いていなかったのである! なんとこの時既に毛利の吉川広家、そして小早川秀秋は家康に内応していたのだ。 特に狼煙をみた毛利秀元、暗黒JK(ry…安国寺恵瓊ら南宮山を降り挟撃しようとするも、 先陣を切るはずの吉川広家がエア弁当を吟味していたということでその場に居座って道を塞ぐ、という事態に陥っていた(これがいわゆる「宰相殿の空弁当」)。 毛利勢は動かない──── それを確信した家康はついに行動を開始する……。 12 00 小早川裏切り 家康は松尾山に向けて大鉄砲による銃撃を仕掛け、これを受けて小早川秀秋はすぐさま突撃命令を下した…、 と、近年まで語られていたが、実は家康側が小早川へと鉄砲を撃ったという一次資料は何処にも存在しない。 そもそもとして、この戦いでは敵味方合わせて上述のように25000丁もの鉄砲で撃ち合っていたのだから、 これが本当だとしたら、どうやって家康側から鉄砲を撃ち掛けられたと小早川軍が判断(特定)できたのかという問題になる。 ともあれ、山をかけ降りる小早川勢。その狙いは、 西軍、大谷勢 しかし大谷吉継はこの裏切りを読んでいた。 柵を張り巡らし、伏兵を構えて。 義の為に戦うと語った友の為にも負けられぬと病床の身を押して奮戦。 小早川の大軍を押し返す事に成功する。しかしその側面を突然の凶弾が襲う。 それは前もって小早川の裏切りに備えて布陣させていた赤座・小川・朽木・脇坂4将の裏切りを示していた──── ※脇坂安治は関ヶ原本戦前に家康とのコンタクトに成功し、戦後所領安堵・内応、子孫は江戸時代後期に譜代格として老中を輩出する名家となった。 赤座直保は東軍の前田家に内応していたが連絡ミスにより東軍内応の公表が遅れたため、 赤座家は改易となったが、直保と個人的に親交のあった前田利長に召しかかえられる。 小川祐忠は藤堂高虎に早くから東軍内応を伝えていたが、やはり伝達ミスで家康に開戦前までに伝えられなかったことから、改易。 朽木元綱も藤堂高虎経由で東軍に内応していたが、家康の側近には伝えられていたものの家康自身が知らなかったため、領地を減らされる。 しかし二代将軍秀忠の時に庶流の末男が大名に復帰し、朽木家は明治維新まで藩主として継続している。 13 00 西軍敗走 これには大谷勢も支えきれず崩壊、大谷吉継は自刃。 大谷隊を失った西軍は東軍の大軍勢に攻めたてられ遂に敗走。 三成は伊吹山方面へと落ち延びた。 死闘六時間。戦国最大の戦いは西軍方裏切りによる崩壊によって幕を閉じたのである。 余談だが、関ヶ原の戦い当日(旧暦9月15日)は家康の長男信康の命日であった。 「信康めのおかげじゃ!」(葵 徳川三代より) 【備考】 ◆秀忠遅参説 関ヶ原の戦いの「六時間」と言うのは、当時の合戦としては非常に短い。と言うより、合戦が一日で終わる事自体が珍しい。 ましてやそれが天下分け目の合戦となれば、普通は何日も、場合によっては何ヶ月も続くと考えるのが普通。 この短期決着は、おそらく合戦に参加していた当事者たちですら、誰も予想していなかった事と思われる。 先に書かれた「秀忠の遅参説がデマ」と言うのもこの辺りに由来し、 大方の予測通りに戦局が推移していれば間に合っていたのに、結果的に予想外に早く合戦が決着したからといって「遅参」とするのは酷だろう。 このことから、現在では秀忠は信州攻略を命じられており、関ヶ原に向かう予定ではなかったという説も有力視されている。 より正確にいえば、元々は信濃を平定しつつゆっくり進軍するというものだったが、 東軍・池田輝政らの大活躍により堅城として知られる岐阜城があっという間に落城するという事態が起こり、 これを聞きつけた家康が駆けつけ、また秀忠にも予定変更しこちらに来るように催促したという形になる。 しかしそれを伝える伝令が、悪天候の影響とそもそもの中山道の遠さなどから到着が遅れたことが秀忠が参戦できなかった要因で、 上田城攻めはそこまで影響してなかったのではないかと言われている。 ◆小早川秀秋 「小早川秀秋の裏切りがきっかけで西軍は総崩れとなった」というものが長く関ヶ原の戦いの定説とされていたが、 近年ではこれは覆され、「小早川は裏切ってなどおらず、最初から東軍だった」という説が有力視されている。 そもそも秀秋は、秀吉の後継者として養子に迎えられ、厚遇されたが、 実子が生まれたら掌を返したように冷遇されるという憂き目に遭っており、 一方の家康には、その冷遇時期になにかと良くしてもらっているため、 豊臣に恨みはあれど恩はなく、徳川には恩はあれど恨みはなかっただろう。 ついでに言えば関ヶ原の戦いは石田三成と徳川家康の戦いであり、 どちらについても豊臣に弓引くわけでもないとくれば、秀秋の心情を考えれば当然東軍について然るべきと言える。 そのため、「最初から東軍に馳せ参じるつもりだったが、地理的な問題で西軍に邪魔され、仕方なく西軍の近くに布陣した」、 「西軍を裏切ったどころか、むしろ西軍に東軍からの裏切りを持ち掛けられていた」とするのが近年の通説である(*2)。 と、この二つの新説は歴史好きには割と有名だが、残念ながら一般層にはあまり広まっていない。 多くの歴史小説やNHK大河ドラマ、古い論文等で広まってしまった従来説は簡単には覆る物ではなく、 「秀忠は遅参した愚か者」「秀秋は稀代の裏切り者」と言う汚名は当面晴れそうにない。 ただ秀秋に関していえば、本人の気持ちはずっと東軍に傾いており、彼にとっては不本意な形であるとはいえ、 伏見城攻めに参加しているために誤解されても仕方ないという側面もある。 秀秋はこのことに関して家康に謝罪する書状を送っている上、 伏見城攻めから関ヶ原布陣まで西軍としての行動を一切していないため、形としては家康から評価され加増されている(*3)。 なお同じく不本意な形で西軍として参戦した長宗我部盛親はその辺の対応にしくじって改易された。 こういった事情をあまり知らない武将や公家、庶民などから裏切ったと見なされ、 また、秀秋が早世して小早川家が断絶したことにより「悪評だけが残った」というのが実際のところなのかもしれない。 ◆桃配山 家康が布陣したとされる桃配山はかつて約930年前に勃発した壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇)が布陣して勝利した地とされ、家康自身もその故事に倣って布陣したとされている。 【戦後】 東軍の主体はその後大垣城と三成の居城佐和山城を制圧。 西軍の大将でもあった石田三成だが、一度は伊吹山に逃れて潜伏するも数日後に発見されたとされるが、実際は領民に匿ってもらっており、これ以上の迷惑はかけまいと自ら出頭したと近年有力視されている。 関ケ原の合戦から半月後の10月1日、京都の六条河原にて主力だった石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は処刑された。また論功行賞では西軍についた諸将らも処罰が下され、土佐の長曾我部元親は改易、宇喜多秀家は数年間潜伏した後、八丈島へ流罪、真田父子も紀州九度山へ追放となったほか、その他毛利、上杉ら大大名の領地は大幅に削られる形となり、これが多くの牢人を生み出す要因となった。 また家康に味方した東軍の諸将らには西軍側から削った領地を与えられたが、福島正則のように尾張から広島へ転封させられたりと、多くの配置換えが行われた。家康自身も譜代に多くの領地を与えたことで領地を大きく増やすことなった一方で、元々この合戦の大義でもある『秀頼様のために』とうった合戦ではあったが、家康が豊臣家の領地を分配してしまったことから、65万石の一大名にへと転落してしまった。 こうした論功行賞を終えた家康は3年後、征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開くことになったが、この時点で家康自身も豊臣家家臣という立場ということもあり、この二つの異なった政権の対立と領地を失った武士らの怨恨がやがて次の合戦へと繋がっていく。 なお、この戦いで得た教訓と言えば、 人付き合いは大切にしよう に尽きるであろう。 追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- 14 00 \チェストォォーッ/\ステガマリゾーッ/\クビオイテケーッ/ 「えっ」 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] おい最後wwwしかしメッケルは結果を知って何を思っただろうか…… -- 名無しさん (2013-08-07 17 06 32) エクストラステージ『島津強襲』 関ヶ原を徳川有利のまま勝利した時に発生 -- 名無しさん (2013-08-07 17 38 44) 「あの…味方が動かないんですけど。」 三成「どゆこと?」 「四面楚歌ですね。 みんな向こう(東軍)についたみたいです。」 三成「あっ…、汚ったね。」 -- 名無しさん (2013-08-07 18 43 15) 関ヶ原では家康はよゆーよゆーと言われているが、実際はかなりビビりまくってたらしい、本当に裏切るか分からない小早川、秀頼が出陣してきた時点で東軍崩壊は確定(なんせ主力は豊臣家臣)、戦場では包囲されている、かなり薄氷を踏む思いだったらしい、開戦前はもうおしまいだと嘆いてたらしいし -- 名無しさん (2013-08-07 19 15 39) せめて丹後田辺城がもっと早く落城して細川幽斎の身柄を押さえてれば 西軍を 官軍として認めさせれたかも -- 松永さん (2013-08-07 20 30 55) メッケルは(西軍から裏切り者が出たことが東軍の勝利に繋がったことを聞いて)、「それなら仕方ない」と苦笑したとか。自分としては多くの武将を味方に引き入れ、また内部工作などで切り崩しを図った家康の深慮を称えたい -- 名無しさん (2013-10-11 18 46 23) まぁ何せ、秀忠3万いないからなが -- (2013-10-24 23 16 57) 三成の人心掌握がいかんせん下手だった…もう少し狡猾に動けてたらねぇ -- 名無しさん (2013-10-24 23 49 23) ↑4細川さん包囲してる連中が彼の弟子ばっかでやる気なかったもんな -- 名無しさん (2013-10-25 01 28 11) 続きは明治で -- 松永さん (2013-11-06 23 30 00) ↑三成が人身掌握が下手だったのは事実。ただでさえ親友大谷吉継に『君は横柄な物言いをすることがある』とキッパリと諌めていた(自分たちが出世できたのは実力ではなく秀吉の引き立てのおかげなんだから分を弁えろよ…という意もあるとか)にもかかわらず、武将としては格上の島津氏の夜襲提案を一蹴しヘソを曲げさせるわ、毛利輝元を引っ張りだせないわ……必死に忠告した吉継が気の毒だ -- 名無しさん (2013-11-07 02 02 33) 秀忠は良く切腹免れたと思った。 -- 名無し (2014-01-04 12 28 19) 東軍のメンツみたら誰のせいかは一目瞭然。田中さんと三成は何を思ったのか。 -- 名無しさん (2014-01-09 01 49 35) そして数百年後 西軍は同じミスはしなかった -- 名無しさん (2014-01-10 00 26 17) 井沢元彦いわく「薩摩は情報収集力を強化し主導権を取り続け、長州は徳川には妥協せずを刻み込んだ」 -- 名無しさん (2014-01-10 01 55 45) そして東軍は数百年後 家康がやらなかったミス 味方の暴走をやらかした -- 名無しさん (2014-01-23 12 25 45) 京極造反が起きずに立花家+αが到着してれば西軍いけたかもね -- 名無しさん (2014-05-26 10 18 24) ↑そうなったら関ヶ原自体起こらないんじゃないか? -- 名無しさん (2014-08-12 11 59 48) もし幽斎様が死ぬようなことがあれば後陽成帝は猪熊事件並にキレただろうな -- (2014-08-12 15 42 42) 岐阜城が陥落していた時点で西軍は勝てない。たとえ関ヶ原で勝っていたとしても岐阜城に退却されれば膠着状態になってそのうち和解しただろう。 -- 名無しさん (2014-09-20 23 37 58) 最近の評価。天下分け目→豊臣家の内ゲバ。まぁ、逆に言えばただの内ゲバを天下分け目に変えたのが家康であり光成なのだが… -- 名無しさん (2014-09-20 23 46 26) 稀に七万以上の東軍を三万の人数で食い止めた西軍みたいに言われてるけど、家康本隊は参加してないし池田、浅野、山内は毛利の抑えでこれも動いてないことを考えるとやっぱり西軍負けてたんだよね -- 名無しさん (2014-09-20 23 52 53) ↑3そもそ岐阜城陥落して逃散兵が相次いでいた可能性も示唆されているらしい -- 名無しさん (2015-06-18 17 28 11) 謎なんだが、鉄砲の元祖であり、文明も(たぶん)進んでて生産力もある欧州で、これだけの銃を使った決戦をしなかったのはなぜなんだろうか? やっぱり騎士道精神があったから? それとも、それほど鉄砲を使った戦術が研究されてなかったんだろうか。 -- 名無しさん (2015-06-18 18 18 20) 日本が太平の世になったか、戦国の世になったか決まった一戦だった -- 名無しさん (2015-09-08 13 07 26) ↑どっちが勝つにしても敵はいなくなるし太平ルートへ真っしぐらなのでは。秀頼が朝鮮出兵するとかなら話は別だが -- 名無しさん (2015-09-08 13 37 17) ↑西軍が勝ったとして誰が日本の中心になる?秀頼は幼いし毛利や上杉という外様大名が力を持つことになるし、おまけに小早川秀秋に秀頼成人までという期限付きだが関白にするという約束してるんだぞ その後に権力争いが起こる可能性のがはるかに高い -- 名無しさん (2015-09-08 14 02 46) ↑ああそうか、その面子が元気なまま丸残りするんだった。小早川は兎も角毛利や上杉は確かに揉める原因になるな -- 名無しさん (2015-09-08 16 51 13) 秀吉の一子分にすぎない三成が正面決戦で勝てば行けるところまで家康相手に持ち込んだのは賞賛に値する。でも持ち込むまでで精一杯だったからある意味三成の限界がここだった -- 名無しさん (2015-09-09 19 48 56) ↑×6それ以外に鉄砲が量産化されていなかったのもある。バラして魔改造して量産してしまった日本のがおかしい。量産化されなければ集団運用は出来ないし。 -- 名無しさん (2015-09-09 20 04 56) ↑2 持ち込んだと言えべきか持ち込まれたと言うべきかは微妙なとこだけどな。秀吉死んでからの家康の深謀は凄まじいし -- 名無しさん (2015-09-10 03 13 39) ↑↑に追記すると、西洋が工業化し先進国になったのは産業革命以降の話になる。例えるなら、武器だけ作れる野蛮人と大差ない。 -- 名無しさん (2015-09-10 03 30 14) そもそも戦国時代の日本って、全欧州に匹敵するくらいの超軍事大国だからね 海軍は遅れてたけど陸軍は本気で洒落にならん 米の国と麦の国の違いといってもいい 農業生産力ひいては人口がガチなんだ 当時の日本の人口は1200万人、全欧州かきあつめてようやく1億という時代 -- 名無しさん (2016-03-15 11 26 25) この時代、しかも戦場で、どうやってこんなに正確な時刻がわかったの?推測? -- 名無しさん (2016-03-15 11 51 51) 正確じゃないが「○の刻」くらいの記録は取られてるから -- 名無しさん (2016-03-15 13 54 42) 秀忠は遅刻したわけじゃなくて本来ゆっくりやる予定だったので別に急いでないだけ。家康が情勢見て短期決戦に切り替えて使者を送ったがこの使者が(天候とかの事情はあるが)遅刻したせいで秀忠も遅刻した -- 名無しさん (2016-08-24 13 23 29) この時代並の超軍事大国に日本がシフトすることはないだろうが......なるとすれば、関ヶ原の悪夢の再来ということに...... -- 名無しさん (2016-08-24 13 35 40) ↑誰と激突するんよ?中国とやりあうんなら、それは関ケ原以上やで。対立のスケール的に -- 名無しさん (2016-08-24 13 56 03) ↑2 諸国乱立の時代を統一国の軍国化と同一視していないか -- 名無しさん (2016-09-09 12 49 25) 完璧な作戦も、一つの裏切りで瓦解するという教訓を刻み付けた戦いのような気がする。ちょっと違うけど、アメリカの完璧と思われた対中戦略も、あのフィリピンのタカ大統領のおかげで、結局は中国にしてやられたし……。 やはり、完璧な作戦と、周囲との関係、これをがっちりしておくことが大切ってことだね。 -- 名無しさん (2016-09-09 13 04 16) 人心が抜け落ちてる時点で完璧でも何でもないんだよなぁ・・・。家康はそこを分かってたから突いて瓦解させたわけだし -- 名無しさん (2016-09-09 14 53 00) こういうのも何だが本当に漫画みたいな展開だと思うわ -- 名無しさん (2016-09-09 19 42 28) ↑2 うーん、やはり周囲との関係と、作戦計画は一つのものなのかー -- 名無しさん (2016-09-09 20 02 01) ↑ そりゃ作戦を実行するのが人である以上は周囲との関係性は何より大切だろうさ。古来から味方の裏切りで戦いが覆った事が何度あったことか -- 名無しさん (2016-09-09 20 23 01) ハリウッドで出来ないかなぁ〜 -- 名無しさん (2016-10-08 20 32 11) 最近の研究だと、島津は最初から戦っていたとか、西軍は小早川を攻めていたとか、大分様相が違うみたいね -- 名無しさん (2016-10-09 21 07 31) 家康も薄氷を踏む思いの戦だったという話もある反面消化試合みたいな戦だったと言う説もあるし実際どっちなんだろう -- 名無しさん (2016-10-30 01 56 04) どっちでもとれるし、人間関係の謎と言えばいくらでも通る話ではある、百年論じようとも謎は謎 -- 名無しさん (2016-11-03 20 36 29) 最近では開戦当初から寝返った小早川と東軍に挟み撃ちにされて西軍あっという間に惨敗という学者もいる -- 名無しさん (2017-01-05 23 02 02) 関ヶ原の時の書状見てると西軍の戦略が甘すぎる三成が関ヶ原の三日前に書状で「輝元殿の出馬は不要、我らだけで十分」とか言ってるし 情報戦の大切さを秀吉から学んでなかったのか -- 名無しさん (2017-04-18 21 39 19) 戦後処理の話がばっさり削られてる? -- 名無しさん (2017-08-09 17 00 52) 何年か前に関ヶ原の戦いを描いた漫画で「徳川家康討死」って展開があったけど、これって史実なの? -- 名無しさん (2017-08-09 17 21 05) 正史な訳ないだろ。徳川幕府詰むわ。関ヶ原で豊臣殺しきれてないわ、秀忠は優秀かは疑問符付くし、乗り越えても3代目のドロドロで幕府崩壊待ったなし。 -- 名無しさん (2017-08-10 00 29 10) ↑2 ちったあ自力で調べようぜ -- 名無しさん (2017-08-30 15 01 11) 鉄砲のこと聞くと、本当に日本人はすごいと思わされる。これ、もしかして日本人が平和ボケと核兵器忌避から目覚めて、世界から核武装許可されたら、あっという間にアメリカ並みの核大国になるんじゃね?まぁ、そもそも平和ボケから目覚めること自体ありえないかもしれんが。 -- 名無しさん (2017-08-30 18 15 26) ↑こういうのを見ると、日本は平和だと感じる -- 名無しさん (2017-10-11 02 13 48) ぶっちゃけ小山評定、井伊直政&松平忠吉の抜け駆け、島津の敵中突破とかの逸話はどれも創作染みてるというか・・・。勝利者である家康が、自身の戦功を過大に誇張するために意図的にでっちあげた可能性は無いのか? -- 名無しさん (2018-12-18 22 58 47) ↑島津の敵中突破を家康がでっち上げて何のメリットがある。 -- 名無しさん (2018-12-19 00 02 05) ↑4 日本は歩兵戦に全振りで陣地の取り合いしてたから防御兵器の鉄砲が使いやすかった、ってだけ。例えば同時期のイギリスとスペインの艦隊戦では、それぞれが200隻ほどの軍艦を揃え、大砲の数は両軍合計で4,000門近くになった。1回の海戦で。あっちは大航海時代で、しかもボーディング(乗り込み)が主要戦術だから、鉄砲なんてオープンフィールド用の武器はいらなかった、というだけの話。 -- 名無しさん (2019-02-16 11 00 00) ↑↑ 敵を持ち上げることで自分を更に上に見せるということ自体はよくあるだろう -- 名無しさん (2020-03-17 17 34 28) 島津自身には敵を正面突破したという記録はない(上手く隙間を突いてなんとか逃げ帰れたわみたいな手紙はある)し、また東軍側でも別段島津の正面突破に言及した資料はない。実態としては上手く東軍の隙をついて逃走できた島津のことを誰かが格好良く解釈してそれが庶民に人気を博して既成事実のようになったというの真実だと思う -- 名無しさん (2020-03-17 17 48 14) 島津は戦意維持のための軍規として「戦場で前進以外選んだやつは誰であれ殺すからそのつもりで」があるんで何とか前に進まないと統率された撤退が出来ないという事情がありはする。ぶち当たる気が本当にあったかはともかく、前には進んだんだろう。……下手すると「その場その場で軍勢をやり過ごしたら目の前になんか家康いた」くらいはあったのかもしれん。 -- 名無しさん (2020-05-11 15 46 10) 元就の孫世代で西軍総大将になった輝元と毛利存続のために東軍に内通した広家どっちの判断が正しかったのだろう。 -- 名無しさん (2021-02-27 23 31 55) 記事の通り家康が小早川軍に鉄砲射かけたというのは嘘でしょうな そんなことをすれば死人が出る可能性が高い そこで生まれた恨みを即座に捨てて徳川につくというのも心理的に難しいし 徳川に見捨てられたと思い西軍の味方をする可能性がある そんな危険なことはしないと思いますな -- 名無しさん (2021-02-28 02 07 06) メンツだけ見たら九州で戦ってるの清正と官兵衛も含めて東軍の方がよっぽど豊臣軍なのが -- 名無しさん (2021-03-11 20 11 55) この時期は家康以外の大老には家の問題も天下を取る絶好の機会であった。宇喜多は家中の内紛、上杉は国替えでの領内整備、前田は利家死後による世代交代、毛利は秀元の養子問題と動くならここしかなかった。 -- 名無しさん (2021-04-03 23 31 18) 西軍としては岐阜城は守るべきだった。秀信も野戦でなく籠城すべきだった。 -- 名無しさん (2021-04-04 10 34 35) 地味に一次史料が少ないから実際はどうだったか不明な点も結構多かったりする -- 名無しさん (2021-04-04 14 53 34) ↑残っている一次資料だと今までの関ヶ原の戦いがひっくり返る模様 初めから大垣城を出た西軍追撃戦であり、小早川も開戦と同時に大谷隊に攻撃して大谷隊は瞬時に壊滅、正午には全て終わったという -- 名無しさん (2021-04-04 15 02 44) 西軍の総大将が三成のイメージが強いが本当は毛利輝元である。あまり語られることが少ない。 -- 名無しさん (2021-04-10 21 17 45) ↑これでいくなら例の布陣図は(そもそも創作だけど)むしろ小早川を攻めた石田と大谷が背後から福島たちに急襲されて逆に包囲されたということになるね。そして徳川勢は大垣周りで毛利とにらみあってただけと -- 名無しさん (2021-04-29 20 28 16) ↑2まあ、腰抜けのボンボンを大将に担ぎ上げたのが三成の最大のミスかもな -- 名無しさん (2021-04-29 20 46 16) 実際、本能寺の変と関ヶ原。毛利が天下を採る可能性は二度あったにも関わらずの時もそうだけど輝元はここぞという時に踏み込まず後ろに引く。まあ、だからこそ最後まで生き残ったんだろうけど -- 名無しさん (2021-04-29 20 56 26) 毛利が天下とっても長続きしなさそうな気が(偏見) -- 名無しさん (2021-04-29 21 13 40) 広島幕府か…勝ったら宇喜多も上杉も大きくなるだろうから無理だな! -- 名無しさん (2021-05-26 08 46 30) 輝元はそもそも天下取る気なさそう 毛利が繁栄すればどうでも良いって思ってる印象 -- 名無しさん (2021-09-19 06 24 39) 資料の再検証の結果、布陣や戦闘推移といった「定説」は明治維新後に書籍に載ったことで定着したもので、実際はかなり違うって説が出てるけどどうなんだろう?小早川秀秋は最初から裏切っていて、それを攻撃するために西軍が出撃したことで合戦になったとかってやつ。 -- 名無しさん (2021-11-02 13 32 20) ってもうコメントに書いてるね。すまん。 -- 名無しさん (2021-11-02 13 34 11) 定説が覆った、事実はかなり違う……ってのも、新説出す時の定番だしなぁ…… -- 名無しさん (2022-01-22 06 40 35) 新説というよりは原点回帰かな。一次資料にはあっさりした記述しかなくて、陣形や有名なエピソードの数々は江戸時代以降にどんどん脚色されていったもの、って説だから。 -- 名無しさん (2022-01-22 10 01 34) ↑17”家康が鉄砲ぶっ放したのは脇坂赤座朽木小川に向けてであり、その後彼らの陣地に家康と秀秋が押し込んできた”という可能性は考えられないかな? -- 名無しさん (2022-01-22 17 22 03) 昔は「西軍で宮本武蔵が参加していたがボコボコにされた」という描写が定番だった -- 名無しさん (2022-01-22 17 54 45) 小早川秀秋はそれまでの待遇とかを考えるともとから東軍でもおかしくないが、原因はわからないが戦後あっさり亡くなったことを考えると思うものはあったのかと勘繰りたくなる(ただお亡くなりになっただけかもしれないしね) -- 名無しさん (2022-01-22 18 49 40) しかも大将の毛利は戦の推移からかとにもかくにも本家への被害を最小にすることが目的だからか大将が動かないのもね -- 名無しさん (2022-01-22 18 54 01) ↑×5 それだけ合戦当時はあっさりケリがついたってことなんだろうな -- 名無しさん (2022-04-14 07 58 19) 東軍に付いた小早川秀秋が松尾山に布陣したので、それを攻撃するために関ヶ原に進出した西軍が、東軍に急襲されて敗走した、だったっけ。>最近の説 -- 名無しさん (2022-07-01 11 24 05) 天下分け目の大決戦!と思われていたから後世になって話が盛られていったのだろうか -- 名無しさん (2022-07-01 21 21 12) 歴史のIFもので「もし関ヶ原で西軍が勝っていたら」というのはよくあるけど、もう一つのIFとして「もし家康が関ヶ原に参戦できず、東軍が徳川抜きで勝っていたら」というのはあり得ない話じゃ無いと思う。西軍でまともに戦ったのが4万程度なのに対し、東軍は小早川が早めに態度を決めていれば徳川抜きでも5万を超えていたわけだから、家康が天下の覇権を握れずに福島・黒田・細川・小早川らが勝者として豊臣家の枢機を握るIF展開も・・・? -- 名無しさん (2022-07-01 22 04 14) 戦争は統率力と士気が大切なのを教えてくれる戦 -- 名無しさん (2022-07-01 22 12 26) そもそも界隈にあんまり詳しくないのが申し訳ないんだが新説の部分って例えば学会みたいのがあってそこで旧説が否定されて新説が主流になっているみたいな感じなのかね -- 名無しさん (2022-07-03 03 19 03) ↑一昔前は実地調査よりも史料第一みたいな風潮があったのもあるけれど、けっこあ前からいま言われているよう解釈はされておくれて一般に伝わっている感じかな、知らんけど -- 名無しさん (2022-07-03 06 46 40) 鎌倉幕府の成立が1185年になったり、坂本龍馬の記述が教科書から削除されたりする様に学校で習う関ヶ原も「天下分け目の合戦」ではなく、「一方的な蹂躙戦」に変わっていくのだろうか -- 名無しさん (2022-07-03 12 42 45) そのうちに江戸幕府がなかったことにされそう -- 名無しさん (2022-07-03 16 25 22) 何でか江戸幕府から源平合戦として扱われて他のなんでだ。いい素材だろうにに -- 名無しさん (2023-05-28 14 53 15) 名前 コメント
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河尻秀隆 掲示された数値 統率71 武勇72 知略41 政治50 363 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 13 38 48 ID H8YloNZY 河尻秀隆 71 72 41 50 こんなもんでどうよ。 364 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 14 34 09 ID jmhG2ybU 363 統率は80あってもいいと思う。 信長軍の中でも主力中の主力だった信忠軍の副将だし、 信長からも「信忠は秀隆を父と思って何事も相談せよ」と言われるほどの信任を受けていたし、 武功一筋で一国の国主に成り上がってる。 最終的な所領は丹羽長秀や細川藤孝よりも多く、 織田家中での地位の高さがうかがえる。 372 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 18 36 10 ID k+1qHAQP 統率は80あってもいいと思う 武功一筋で一国の国主に成り上がってる 信行殺害などの陰働き、織田家次期当主である信忠の守役としての 実績・期待も加味されての評価だと思うな で、一国の太守としての地位が身に余るものだったということは、 本能寺の変後にはっきりしている 自分はそんなに評価する気にはなれないな 373 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 19 09 22 で、一国の太守としての地位が身に余るものだったということは、 本能寺の変後にはっきりしている 本能寺の変という戦国時代最大の事件を軽く見すぎ。 滝川とか鬼武蔵とかが逃げ帰ってる中で国を守ろうとしたっていう判断も重視すべきかと。 領国経営だって2ヶ月しかやってないからね。 結果だけから判断するなら身がどうこうとかは分からないとしか言えない。 でもまあ信長の人の能力を見る目は確かだから、 統率71 武勇72 知略62 政治75 このくらいが妥当かと。
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長船あたき 魂鋼の種類 個数 熱量 打数 焼き入れ残時間 真剣タイム回数 リーダー 作刀名 魂鋼(並) 3個 2分 1861回 残り14秒 2回 一振いちご 打刀 安宅切 魂鋼(並) 3個 2分 1806回 残り14秒 4回 一振いちご 打刀 安宅切 魂鋼(優) 3個 2分 2205回 残り2秒 5回 瀬登だいや 打刀 安宅切
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織田家・豊臣家系 関東地方 奥羽地方 九州地方 中国地方 四国地方 京・畿内・近畿地方 甲信越・東海地方 越中・能登~若狭
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鍛刀実績一覧 池田正宗ながよ 魂鋼の種類 個数 熱量 打数 焼き入れ残時間 真剣タイム回数 リーダー 作刀名 魂鋼(並) 3個 2分 1501回 残り16秒 3回 瀬登だいや 打刀 池田正宗 魂鋼(並) 3個 2分 1389回 残り19秒 3回 瀬登だいや 打刀 池田正宗